ブログにおけるタグとカテゴリの役割

11/03/2020 0 Comments

はじめに

タグとカテゴリの違いなんてものは、何処の誰でも辞書を捲るかキィ・ボードを叩くかSiriに声を掛けるかすれば、あっという間にそれなりの厳密さと共有範囲の広さを持った定義を獲得できるはずのものだ。

ところが、人間というのは理性でばかり動けるものではないため、利益の追求や設計の手抜き、するべきでない曖昧さの許容によって、折角先人達が担保した筈の情報伝達効率をなし崩しにしてしまうことが少なくない。衒学的な言い回しを避けると、怠け者かつ馬鹿だから、自分の首は疎か他人の首まで締めることが少なくない。

先に進む前に、曖昧さの許容の例を挙げておこう。

貴方は何かしらの物体か、或いは概念的なモノに対して「鍵を掛ける」という行為をしたことがあるだろう。この「鍵を掛ける」という文言が、きっとなし崩しによって生まれた「厳密には正しくない表現」だ。正確に、厳密に言葉を用いるのなら、これは「鍵を用いて錠を掛ける」というべきだ。これに納得がいかないのなら、反対の行為である「鍵を開ける」を考えればよい。「開ける」対象は明らかに蓋なり扉なりの閉ざされたものであり、「鍵を用いて錠を外し、戸を開ける」というのが、一連の行為に対して――我々の直感に反して――冗長性を一切持たない記述だ。

この例では、話者・著者と聞き手・読者との間で内容の伝達ができればそれで良く、特に誰が損害を被るでもないだろうからそれで構わない。が、タグとカテゴリの有り得ない錯乱混用は、大いに害を成し得る。実際に私が害を受けたし、私が害を受けたことを自覚している以上は他にも同様の人がいて、害をなした側に対して少なくとも消極的な損害を与えていることは確実だ。

そこで、この記事ではタグとカテゴリの、何故に弁別しなければならないかわからないくらい混同しようもないこの二つの全く異なる概念を弁別し、それらがブログという媒体でどう扱われるべき存在か、どういう役割を果たすものかを今更ながら明らかにすることを目的とする。

そのためには、各語の旧来の意味を幾つかの辞典から定義を拾って検討し、弁別することとから始める。これは第二章で示される。次に、ブログという媒体が現代の社会でどのような役割を担う表現形式・媒体であるかを検討する。これは第三章に示す。これによって、タグとカテゴリがその中で果たすべき、或いは果たしうる役割は自ずと見えてくるだろう。最後に、これらの分析が現実にどう反映されるべきであるか、反映されることで誰にいかなる利益がもたらされるかを簡単に検討する。これを、ブログメディアの提供者を執筆者、管理者、開発者の3つに切り分けて行うのを四章とする。最後にインク塗れの駄文を添えて本稿のまとめとする。これが論文であれば現状の分析や参考文献に紙幅を費やすところだが、これはそういうアレではないので、これは割愛する。

旧来の意味

タグの語義

はじめに「タグ」の旧来の語義を確認しよう。ただし、ここでいう「旧来」とは、「ブログの記事に付与される情報の種別として用いられる以前の」という意味で用いている。

さて、引用はオンラインで引いてこられる、便利な世の中になったものだ。

①付け札。荷札。
②商品に付けてある札。商品名・価格・種類・製造会社などが記されている。
(後略)

出典 三省堂大辞林 第三版

《「札」の意》
 付け札。荷札や、商品に下げる値札など。タッグ。
(後略)

出典 小学館デジタル大辞泉

両者ともに、付け札としている。それぞれ引用を省いたのは電子タグやマークアップ言語のタグなど、旧来の語義から派生した要素である。

次に、外来語を日本語の辞書で引いても不十分だろうから、英語の辞書も引き、念の為に拙訳を付しておく。尚、引用にあたっては上と同じく、電子機器に関連する派生的な意味、及び動詞としての用法は引かず、訳は直訳に努めた。

1. COUNTABLE NOUNtag is a small piece of card or cloth which is attached to an object or person and has information about that object or person on it.

1.可算名詞 タグは、ある物や人に取り付けられ、その物や人についての情報を持った小さな紙片または布切れである。

……

6. COUNTABLE NOUN You can refer to a phrase that is used to describe someone or something as a tag.

6.可算名詞 貴方は誰かや何かを記述するのに用いられる句をタグとして言及できる。

……

8. COUNTABLE NOUNtag is a short phrase or saying that you quote from a book, speech, or piece of writing.

8.可算名詞 タグは書物、演説または文書の一部から引用する短い句や格言である。

9. UNCOUNTABLE NOUN Tag is a children’s game in which one child chases the others and tries to touch them.

9.不可算名詞 タグは一人の子供が他を追い、彼らに触ろうと努める子供の遊戯である。

出典 Collins Online English Dictionary

1[countable](often in compounds)a small piece of paper, cloth, plastic, etc. attached to something to identify it or give information about it

1[可算](しばしば複合語の中で)それを見分けたり、それについての情報を与える目的でなにかに取り付けられる紙、布、プラスティック等の小片

……

3[countable, usually singular] a name or phrase that is used to describe a person or thing in some way

3[可算、普通単数]人や物を何らかの方法で記述するのに用いられる名前や句

4[countable] (linguistics) a word or phrase that is added to a sentence for emphasis, for example I do in Yes, I do

4[可算](言語学)文に対して強調のために加えられる語や句、例えば、ええやりますという場合の「やります」

…….

6[countable] a short quotation or saying in a foreign language

6[可算]短い引用や他の言語の格言

……

8(British English also tig) [uncountable] a children’s game in which one child runs after the others and tries to touch one of them

8(英では tig とも)[不可算]一人の子供が他の子供達を追いかけそのうちの一人に触ろうと努める子供の遊戯

出典 Oxford Learner’s Dictionaries

Collins Online English Dictionaryでは、Oxford Learner’s Dictionariesの中、4の「強調のため付け加える句」が紹介されていないが、他は皆同じだ。それらを順に意訳してしまえば、

  • 荷札
  • 渾名
  • 諺・格言
  • 鬼ごっこ

となる。渾名についてはそれに当たる日本語として、他に烙印とか、カタカナ語の「レッテル」が相当するだろう。これはレッテルは三省堂の②の意味にある「商品ラベル」の意味のオランダ語( letter )が語源らしく、この場合タグとは異なり商品に貼り付けられた紙片の類に限定されるようだ。タグに比べると接着剤によってなかなか剥がれにくく、剥がれても糊が残ったり、柔らかなものは傷が付いたりと厄介で、不名誉な渾名の性質をよく捉えた比喩だ。

鬼ごっこをタグというのはどういうことだろうか。鬼の役割という仮想的なタグを相手へ接触して付ける、というイメージなのだろうか。まあ、今回の研究に直接は関わらないので深く掘り下げるの早めておく。ただ、「鬼ごっこは英語で tag 」というのは私にとって、今回の研究で得た一番の収穫かもしれない。

閑話休題。

タグという語の原義は英語を引く限り「他のものと見分けるため、あるいは詳細な情報を付すためにものに取り付けられる要素」であり、またそれは日本語に輸入されてなお変わらないことが確認できた。

カテゴリの語義

次にカテゴリについても同様に確認しよう。これは元が哲学用語で、範疇という訳語が用意されているので、それを引く。哲学用語だけに定義はブレにくいので、引用は日本語の物を一つで十分だろう。

 《「書経洪範の「天乃ち禹に洪範九疇を錫(たま)う」から》同じような性質のものが含まれる範囲カテゴリー。「コメディーの範疇に属す映画」「趣味の範疇を出ていない

 哲学で、あらゆる事象をそれ以上に分類できないところで包括する一般的な基本概念。(以下略)

出典 小学館デジタル大辞泉

これらを要するに、カテゴリ=範疇とは、ある基準に沿って物事を分類する分岐先の容れ物のことだ。家庭にある、可燃、不燃、生ゴミ、ビン、カンなどのゴミをそれぞれ振り分ける、各々のゴミ箱を思い浮かべればいい。

こういう分類をもっとも厳密に行っている身近な施設といえば、図書館が思い出される。日本では殆どの図書館において日本十進分類法が採用され、扱う内容によって、

  • 0.総記
  • 1.哲学・宗教
  • 2.歴史・地理
  • 3.社会科学
  • 4.自然科学
  • 5.技術
  • 6.産業
  • 7.芸術
  • 8.言語
  • 9.文学

の十の範疇に大別され、更にそれぞれの中でまたその内容によって二桁の番号が付され、最後に著者の名前の五十音順に並べられる(始めの十の範疇を「類」、次を「綱」、次を「目」と呼び、さらに下位の分類も存在するが、ここでは本質ではないので割愛する)。

しかし、これは図書館という極めて論理的な知の集積所に固有の現象ではない。似たようなことは、もっと身近なところでいくらでも見ることができる。ドラッグストアへ行ってみるといい。頭痛薬、軟膏、歯ブラシや歯磨き粉、化粧品など、同じ範疇に分類される物は一つの区画の中へ整然と陳列されているのを目にするだろう。大型量販店の衣料品売り場でもいい。下着、上着、シャツ、寝間着、水着、運動着など、それぞれ機能によって売り場が分けられている。同じメーカの製品だからといって洗顔石鹸とシャンプと歯磨き粉と台所洗剤とが一箇所にまとめて売られているような店、同じメーカだからというだけで水着と下着とを一つ所に陳列する店がもしあれば、極めて特殊だろう。

タグとカテゴリの差異

最後に、旧来の語義におけるタグとカテゴリの差異を確認しよう。

カテゴリとは「ある基準に沿って物事を分類する分岐先の容れ物」のことであった。タグは「他のものと見分けるため、あるいは詳細な情報を付すためにものに取り付けられる要素」であった。すると、あるものがあるカテゴリに属することをある共通のタグを取り付けることで示すことが可能である。||恐らくこれがタグとカテゴリの錯乱した混用の原因の一つと邪推するが、これは本論に関係がない。||

だが、既に確認した通り、タグとカテゴリは全く異なる概念であることは揺るがない。実用的な面に注目しつつ、具体例を見てこれを確認しよう。

例えばシャツはシャツとしての機能を備えるべく生産されてシャツというカテゴリに属する製品としての存在を獲得する。その首や左脇に付けられたタグには何が書いてあるか。メーカが購入者に提供したい情報、つまりメーカ名やそのロゴ、サイズ、素材、洗濯・乾燥の際の注意書きがあるだろう。また、売り場にあるときには販売店が客に提供したい情報、つまり値段を示す値札が付けられていたかもしれないが、それもまたタグの一種だ。

この側面から、カテゴリがある基準に沿って自動的に定まるのに対して、タグは飽くまでもタグをつける人間がタグを見る人間に対して提供したい情報を、タグをつける人間の手によって付与する恣意的な要素であるという明確な差異が浮かび上がる。

混用・履き違えの弊害

このまま衣料品を仮定しながら、タグとカテゴリを履き違えた場合にどのような弊害が起き得るかを検討する。

カテゴリとはシャツ、パンツ、靴下、下着、水着というような、形態と機能とによる分類先であり、図書館の例に倣えばその具体的な象徴は「売り場のコーナ」と言える。同じコーナに並べられているのは同じカテゴリに属するもの、とすると理解しやすい。

さて、衣料品でタグ(値札や素材表示)と売り場のコーナを入れ替えるとどうなるか。

値札とコーナを入れ替えると、シャツもパンツも靴下も水着も同じ値段のものを集めたコーナが出来上がる。素材表示とコーナを入れ替えると、それがシャツも水着も綿製品なら綿製品のコーナ、ポリエステルならポリエステルのコーナに並ぶことになる。それだけでなく、本来一種類に決まるカテゴリがタグに置き換わるので、シャツには「シャツ」、水着には「水着」というタグただ一種だけが付いていることになる。これではコーナを分けて得られるはずの検索性も、タグを付けてユーザに提供できるはずの多くの情報も、共に大きく失われている。

或いは、値段が980円でかつポリエステルでかつあるメーカ製で……と、気の遠くなるような細分化された小さなコーナを無数に設けるという手も無くはないが、タグとして商品に付随していないので、客はそのコーナを離れる前に洗濯の方法から値段まで、必要な情報の暗記を迫られる。店員だって、バーコードの付いたタグが無いので、商品の値段や型番を暗記しなければ会計も商品管理もままならない。

定義上、取り違えるするはずのない二つの概念の取り違えというのは、こうまでも不都合を生じる。

ブログ記事に付されるタグとカテゴリ

ここでは、ブログの記事に付される情報としてのタグとカテゴリが果たす役割を検討する。ただし、前章までの検討によってこれはもはや自明に近い。

ブログ記事のタグとは

ブログ記事に付されるタグ情報は――これは全く正しい表現で、実に気持ちが好い――記事について未読の読者に、記事の筆者やブログの管理者が提供したい情報だ。それは一つである必要もない。ごちゃごちゃしてどれが必要或いは有用な情報かが見分けられなくなっては元も子もないから、当然適正な範囲を検討する必要はあるだろうが、語義からしてその数に上限はない。

もちろん、そのうちの一つをカテゴリを示すのに使っても構わない。その他に、複数の執筆者がいるならそれをタグに記しても良い。もちろん、シャツのタグや医薬品のラベルのように原材料――文章においては話題や題材にあたるだろうか――を示したり、注意書きを添えるのに用いることもできる。こういう語義的に正当なタグの用い方が周知されると、「タグに『ネタバレ注意』の注意書きがなかった」なんて訴訟を起こされる未来が来るかもしれない。

ブログ記事のカテゴリとは

ブログ記事に付される――これはブログ記事の作成の際の作業からの表現であって本来正しくない――カテゴリ情報は、ある基準によって自動的に定まる記事の分類先である。この文は正確を期すなら、以下のように書き換えられるべきだ。すなわち、ブログ記事は管理者の定めた基準によって、その内容・性質から(理想的には)ある一つのカテゴリに押し込められる。

基準はブログ(或いはブログ集合体)の管理者が明示的に示すのが理想的だが、記事に使用する言語を用いる人間に共有を期待できる概念であれば十分だろう。書評といえば何らかの著作物について評価を述べる文章を、紀行といえば旅行体験について述べる文章を指す、とブログの読者が判断することを期待するのは、ブログの管理者として怠慢だろうか?

反対に、ブログの読者はカテゴリに対して――ブログは当然、言語と写真・図表を中心とした表現媒体であるから――言語と写真・図表を中心とした表現媒体の分類に対する一般的な表現を求める。雑記、随筆、評論、短歌、小説、報道のような旧来のものだけでなく、食レポ、愚痴、雑談なんてものでも世代にはよるがターゲットに適した語であれば需要は満たせるだろう。

念の為に、タグとカテゴリとの使い分けについて確認しておこう。

はじめに、カテゴリは理想的には一つに定まる。二つのカテゴリを設定できるなら、それは図書館の分類のように親子関係、つまり包含関係にあるのが望ましい。

次に、タグに任せるべき情報は決してカテゴリが担うべきではない。それは一般の商品であれば成分表示や値段、メーカ名、注意書きにあたる内容だ。スーパーマーケットは「シャツが欲しい」客に対して衣料品売り場設けるが、「ポリエステル製品がほしい」客に対して化学繊維の服や歯ブラシ、靴、リュックサックの並ぶ売り場を設けたりはしない。それが本当に合理的かどうかを確かめたければ、陳列の研究者に尋ねるか自分でそのような商店を経営してみるといいだろう。

現状への適用と利益

執筆者の利益のために

読者と検索者

最後に、今まで検討してきたカテゴリとタグの弁別をもとに、ブログに携わる人間がすべきことを検討する。が、その前に、これを分析するために必要な二つの概念を紹介する。それらが妥当か否かは本稿より大きな論文を要するだろうから、単に紹介するだけだが、きっと多くの人は直感的には真であると感じるだろう。

二つの概念とは、ブログを訪ねる人間、つまり訪問者を、その動機から二分するカテゴリである。

一つ、twitterなりのソーシャル・メディアからでもなんでも、あるブログやその執筆者の存在を認知して、その執筆する内容を読もうと接続する訪問者を、「読者」とする。「読者」には執筆者を気に入って贔屓にしている者もあれば、親の敵のように嫌悪しているものもあるだろうが、それぞれ記事を仔細に読む強い動機を持つ訪問者だ。彼らは娯楽、暇潰しとして情報を漁るから、1ページに留まる時間も長いし、そこに関連記事等のリンクがあって、興味を惹かれればそこへ飛ぶことも珍しくない。

一つ、Googleなりの検索エンジンでたまたま引っかかってリンクを踏んでやってきた訪問者を、「検索者」とする。「検索者」には明確に「この情報を得たい」という強い欲求があって、執筆者が誰かなどということは一切価値を持たない。目的の情報以外の一切がノイズであって、そこに辿り着き易い、デザインが読み易い、文章が熟れている等の要素は、確実で正確な情報がそこにあることが確かである限りはほとんど重要でない。また、目的の情報以外を読み取ろうとはしないし、「読者」に変貌したりはしないのが普通だ。精々、有益な情報をありがとうとコメントを残し、Goodボタンを押すのが関の山で、これでさえかなりの少数派だ。外回りの仕事中、突然酷い頭痛に悩まされた人が薬局へ行って痛み止めを購入する様を想像すればいい。もし仮に親切な店員がいたとしても感謝こそすれ、自宅からも勤務先からも遠いその薬局の常連になることはまず無いだろう。

以降、これら「読者」、「検索者」とその性質についての分析が真であることを前提に、ブログの筆者がカテゴリとタグの弁別に基いてなすべきことを検討する。

執筆者とカテゴリ

次にカテゴリについて述べよう。執筆者は、ある記事を執筆するにあたって、予め書かれる内容を知っている。だから、それをもとに管理者の指針に沿って分類された一つ乃至、親子関係にある二つのカテゴリに納まる範囲に内容を検討してから執筆を始めるとよい。二つ以上のカテゴリにまたがる内容は適切に切り分けて、はじめから二つの記事に分けて書けばよいのだ。一つの記事にする合理的な理由があるならそうすればいいが、私にはちょっと思いつかない。バイクに乗らないのに仮面ライダーを名乗る理由の方が、こじつけやすいと思われる。

仮に、1/3は日記、1/3はプログラミングのTips、1/3は可愛らしい猫の話題というような記事を書いたとしよう。それは検索性が低いために、「検索者」からは見向きもされない。一度は必要な情報のためにCtrl+Fを押すかもしれないが、二度目は無いとみるべきだ。ネットに少々詳しい者なら検索エンジンへのアクセス手段をカスタマイズして、ドメインを無視リストに入れるかもしれない。そうでなくとも、ドメイン名が悪印象とともに記憶され、検索結果に表示されても避けられる。「読者」にとっても、あの話をもう一度読みたいと振り返るとき、カテゴリが混乱していればどれが目的の記事だったか、辿り着くのは困難になる。あらゆる記事に「日記」、「プログラミング」、「猫」のカテゴリが付されているなら、カテゴリ情報が記事を絞る役に立たないからだ。

執筆者とタグ

一方、タグについてはその記事の成分として含まれているものや注意書きを、思う存分付けることが利益となる。

薬品の成分表示のように、中に含まれている成分については漏れなく記すべきだろう。共通の要素を持った記事を検索したいときに役に立つし、そういう目印としての役割こそタグの本領だからだ。ただし、それは薬品の成分表示と同様、できる限り具体的に記すよう努めねばならない。鮭フレークの原料に「鮭」と書かれていても何の参考にもならないからだ。「ノルウェイ産サーモン」とか「鮭(北海道産)」とすることではじめてタグとして機能する。

そこで、「その対象となるのが名詞に限定されるべきか?形容詞を含む名詞句ならば許容されるべきか?もしそうなら形容詞は無限に許容されるべきか?その形容詞を修飾する副詞が付いた場合は?それともその他の品詞まで?」という新たな課題が生まれる。前章に、余りにタグだらけになっては――例えば大量のキィ・ホルダの付けられた鍵のように――かえって実用度が下がるのではないかという懸念を示しておいたが、これはこの課題を検討すると、恐らく自動的に解決を見るかと思われる。いずれにせよ、本稿はタグそのものではなくカテゴリとタグの対比から弁別から明らかになる範囲を扱うものであるので、この課題については他に譲るとする。

さて、注意書きについては、予めある程度の種類を用意しておくとよい。割れ物注意とか、天地無用とか、個人の感想ですとか、スタッフが美味しくいただきましたとか、注意書きというものは回避すべき不測の事態やクレームに対する対応だから、それらに対しての定型句が対応する。定型化していることでそれを受け取る訪問者側も理解が早くなる。ただし、これについては個人の執筆者の場合には後手後手に回るのも仕方がない。不測の事態を予想することは予言者でもなければ困難だし、どこからどんなクレームが付くかの予想も同様だからだ。だから、これは次のように管理者に求めるのが自然だろう。

管理者の利益のために

管理者には、――現状でそれがなされていないならば――二つの作業が利益をもたらす。

一つは執筆者のために分類の指針を明確にしたカテゴリの体系を用意することだ。例えば映画の批評を書いた記事を分類するにあたって、

  • 映画評論文
  • 映画批評文
  • 映画評論
  • 映画批評
  • 映画評
  • 映画の感想文
  • 映画の感想

のように、似たような表現でも個人の言語感覚によって微差が出る。多くのブログ記事を集積して管理したいのであれば、これらの差異は損失にしかならない。カテゴリは飽くまで分類先だから、司書は筆者の意図とは無関係に、基準に則って書物のカテゴリを定める。それと同様、管理者が十分な――十進分類法の下位カテゴリまでいかずとも、3桁までの分類で十分だろう――カテゴリを用意しておけば執筆者から不満が出ることはまずありえない。

これによって執筆者は悩むこと無くカテゴリを定めることができるし、記事がカテゴリに収まらないことを自覚して記事を切り分けるべきだと自覚する役に立つ。訪問者も分類の基準が一定であることで、検索性の高さの恩恵に与ることができる。

次に、タグの内、注意書きに分類されるタイプのものをひとまとめにして執筆者に提供するべきだ。個々人の執筆者と違い、管理者はありとあらゆる不測の事態、クレームを経験し、集積することができる。それを分析し、有効なタグ群を研究して執筆者に提供し、執筆者を読者との無用なトラブルから守ることは、執筆者を増やし管理者の利益となる。そして、これは管理者にしか出来ないことでもある。

開発者の利益のために

開発者はのするべきことは、今のところ二つだ。

一つは、カテゴリについて。カテゴリは一つまたは一つの親子、または子孫関係にあるものしか選択できないようなシステムを提供するべきだ。執筆者の入力したキィ・ワードに反応し、管理者が用意したカテゴリをサジェストするような機構を取り入れれば、利便性が上がる。反対に、執筆者レベルで自由なカテゴリ設定は可能にするべきでない。

もう一つは、当然タグについて。タグは可能な限り多く、執筆者の自由に設定できるように、既に多くのシステムでなっていると思われるのは喜ばしいことであり、エンジニアが理知的であることの証拠である。ただ、本稿で得られた知見からひとつだけ提案ができる。注意書きに属するタグを管理者が用意し、執筆者に提供できるような仕組みを、タグの下位機能として実装して欲しい。

これは管理者にとってはユーザを増やし、執筆者にとっては無用なトラブルを避け、訪問者にとっては情報選択を入り口で容易にする、素晴らしい機能になるはずだ。これが開発者の利益となることは、疑う余地もない。

最後に、或いはインク塗れの駄文

さて、カテゴリとタグとを比較弁別という一見どころか何度見ても無駄な作業がようやく終わった。これを読んだ執筆者、管理者、開発者の皆さんに、もし役立つ情報があれば幸いである。

もちろん、カテゴリとタグを取り違えているブログサービス提供会社が仮にあったとして、その社員が本稿を読んだのであれば、是非稟議によって現状を是正するとよい。アクセス数もユーザ契約数も確実に向上するのは間違いない。その暁には本稿を参考にしたことを明示し、感謝の意を日本円に換算して示して頂ければと思う。

ところで四章では、それまでの確認作業からどのような利益を生む行動(の修正)が導けるかを示した。普通、知的な文章というのはそういうものだ。衒学的に言い直せば、論理的に導かれた命題をもとに、それに従ってどのような利益がもたらされるかを述べた。命題に逆らう不利益を説くのは||エセ宗教者の脅迫による勧誘||や、||エセ共産主義者による破壊・工作活動||であり、つまり少しも知的でない。

これはつまり、欧米人に比べ日本人はクレームを飲み込み、代わりにその店を一切利用しなくなる傾向があると言われるが――その真偽の程は別として――私もその例に漏れず、一々改善を要求して積極的に利益をもたらすような都合の良い客でないという意味である。

この記事が少しでもブログに携わる人間を幸福に導くものと信じて。

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